青山家のご先祖様『うちの青山家』は、以前は東京の青山に、お屋敷がありました。そ~です。 あの「青山通り」の「青山」です。 ・・・と言っても、江戸時代の事ですが。 私は、一応、直系の長男でございます。 m(__)m 江戸時代は青山一帯が領地でした。 ・・・というのには、理由がありまして・・・ ある日、青山忠成が家康の鷹狩りに随行していたところ、家康は赤坂の上から西の方を見渡して、 忠成に向かって「馬に乗って一回りして参れ。その範囲の土地を屋敷地として与えよう」と言いました。 そこで忠成は馬が弊死するまで駆け巡り、広大な土地を賜った・・・と言うのです。 (新宿一帯を賜った内藤清成にも同様の話が伝えられています。) 『寛政重修諸家譜』には「忠成すなはち馬をはせて巡視し、木に紙を結びて境界の標とす。 赤坂の麓より渋谷の西川にいたるこの地はもと原宿と言う。これよりのち青山宿と呼ぶ」 ・・・と記されています。 ◎ 青山忠成は、徳川家康の小姓より秀忠付となり、関東三奉行の一人でした。(江戸町奉行) ◎ 青山忠俊は、 忠成の次男として生まれ、将軍家光の傅臣となり、翌年老職に就任。 家康・秀忠によって家光の輔導(教育)役を命じられた土井利勝・酒井忠世・青山忠俊を、 「寛永の三輔」と呼びます。 酒井忠世は言葉少なで謹厳、家光が敬して遠ざけるような性格で、 青山忠俊は合わせ鏡で衣裳を直す家光に諸肌脱いで諫言する剛強さ。 両人を煙たがる家光に、利勝は盃を進めながらその諫言の正しさを諭したという。 家光の教育係三名は、智の利勝・仁の忠世・勇の忠俊と評され 「寛永の三輔」としてひろく随筆や画題として描かれました。 <酒井雅楽頭忠世画像・利勝公画像・青山伯耆守忠俊画像> ※ 花山院師賢(正二位・大納言・藤原師賢)が、現在判明している、最古のご先祖様です。 元弘元年(西暦1331年)の『元弘の変』 ~藤原師賢、後醍醐天皇になりすまして、京都御所脱出、延暦寺へ~ の『師賢』です。 『思ふこと なくてぞ見まし ほのぼのと 有明けの月の 志賀の浦浪』 ※※ 他にも、沢山偉いご先祖様がいるのですが,おいおい・・・追加していきます。 m(__)m |